東京・霞ヶ関の官庁街にはいま、IT(情報技術)熱に冒された役人が充満している。インターネット業界の取材を担当して約5年。ネットとは無縁だと思っていた霞ヶ関の住人はいまや口を開けば、「IT、IT」の大合唱だ。今年1月に政府がまとめた「eジャパン計画」によれば、日本政府は2003年までには電子政府の基盤を整備し、5年以内には世界一を目指すのだそうだ。
「従来型の公共事業では予算は取りづらい。しかし、”IT”の文字さえあれば予算は、はるかに取りやすい」ある官僚の言葉だ。
大手コンピューターメーカーでさえも人員削減に追い込まれるなどITバブルが崩壊する中、企業は電子政府・電子自治体向けの商品開発に躍起だ。ある電気メーカー幹部が「IT産業が、土建業界化している」と嘆くほど、税金にぶら下がり始めた。実に深刻だ。
役所が乗り出して来るといつでもおかしな方向へ動き始めるのはこの国の常だ。
小泉純一郎首相が9月にまとめた「改革工程表」によると、今月7日閉会した臨時国会でのIT関連法案の目玉は、「個人情報の保護に関する法律案」(個人情報保護法案)と、「特定電気通信役務提供者の損害賠償責任の制限及び発信者情報の開示に関する法律案」(プロバイダ責任法案)などだ。これらの法律も問題が多い。
個人情報保護法案は継続審議となったが、プロバイダ責任法案は成立した。
個人情報保護法案は、法律の目的に「高度情報通信社会の進展に伴い個人情報の利用が著しく拡大していることにかんがみ(中略)個人の権利利益を保護することを目的とする」ともっともなことを掲げている。
しかし、法案は、利用目的による制限▽適正な取得▽正確性の確保▽安全性の確保▽透明性の確保---の5項目を努力義務と、罰則を伴う義務規定を定めた。第3者からの情報収集を制限するなど表現・報道の自由を大きく制約する内容となった。しかし、報道分野だけではなく、一般市民生活にも厳しい規制が及ぶことも懸念されている。
法案は義務規定の適用を営利目的に限定しているわけではない。公害被害者らを救済するNPO(非営利組織)や弁護士などの活動も対象となる。政府の方針と対立するテーマだった場合などで個人情報の取り扱いが不当なことを口実に、主務大臣が介入に乗り出し、罰則(6月以下の懲役又は30万円以下の罰金)を科すなどこの法律によって市民活動が委縮する可能性は大きい。
プロバイダ責任法にも”危険性”
一方、プロバイダ責任法はどうか。プロバイダが会員に提供する電子掲示板やウェブサイト開設サービスで、他人を誹誇・中傷したりする書き込みや、音楽データやパソコンソフトをはじめとした著作物を無許可で配布するなどの権利侵害に対するプロバイダの責任範囲と、権利を侵害されたとする被害者からの請求に基づいて会員情報を開示した場合の責任範囲を定めた。プロバイダは、「他人の権利が不当に侵害されていると信じるに足りる相当の理由があったとき」は、会員からの損害から賠償を求められても免責される。
しかし、同法に対してはネット上の表現の自由を制約する恐れがあるとして懸念する声も小さくない。
1999年には東芝のサポート窓口の対応のまずさを指摘するウェブサイトが大きな注目を集めた。市民が大企業や組織を相手に告発する手段としてインターネットの影響力の大きさが初めて社会的に認識された。
こうしたケースは「他人の権利を侵害」することになるのか。また、選挙を前に公開されるようになった「落選運動」サイトや、汚職の疑いのある議員に辞職を求めるサイトはどうなのか。さらに内部告発サイトは。正当な批判と、中傷は紙一重の関係に近い。
大手プロバイダのある担当者は「面倒な訴訟に巻き込まれたくないプロバイダの立場では、法的に責任がないということになれば削除する方向に傾く」と本音を隠さない。
実は、当初案にはプロバイダに罰則を科す総務大臣権限が盛り込まれていた。総務大臣が「情報の適正な流通を確保するため必要があると認めるとき」は、プロバイダに勧告や命令でき、従わない場合は50万円以下の罰金を科すなど強力な大臣権限を付与していた。表現活動に対する行政介入を招く懸念から関係業界が反発し、削除された経緯がある。政府の本当の狙いはここにあった。
来年夏にスタートする国民全員に11けたの番号を付けて個人情報を一元管理する「住民基本台帳ネットワークシステム」の危険性については、本誌IO月号ですでに指摘したのでここでは詳しく述べない。
IT社会に対応するはずの法規制が現実社会に強い毒を与えかねないのは、メディア規制をも視野に入れた個人情報保護法案を見れば明らかだ。電子政府取材を進めると、IT社会を口実に「国民監視法」を手にしたい政府の思惑が透けて見えてくる。IT社会がもたらした最大の受益者が政府だと考えるのは、穿った見方なのだろうか。
ITは大量の情報を容易に、しかもこれまで以上にはるかに安価での処理・利用を可能にした。そして、だれもが自由に世界に向かって情報を発信できるインターネットの登場は、15世紀のヨハン・グーテンベルクが発明した活版技術とよく比較される。
しかし、その行き着く先が正反対の電子監視社会だった、なんて漫才のネタにもならない。役人の知恵熱で終わることを願っている。
「月刊ASCII」 2002/01『危険な役人のIT熱』 臺宏士(毎日新聞記者)より転載